ガルシアへの手紙
エルバート ハバード, Elbert Hubbard, ハイブロー武蔵
セルフヘルプの精神
自分を助ける一番の味方は自分自身のはずなのに。
自分がどのような行いをしているかを一番知っているのは、まぎれも無く自分自身である。単純に考えて、人は「信用し味方になる」対象とは、それに見合う人に対して、「信用し味方になる」はずで、そうじゃない人には「信用し味方になる」はずはない。
おそらくそれは、自分自身を一番良く知っている「自分自身」もそうであって、決して信用に足る自分自身でなければ「信用し味方になる」ことは、ないのかもしれない。
「ガルシアへの手紙」本文は200行程度の短い文章ですが、そこから得るものは多いように思います。
本書の多くの部分を割いている、解説は辛口で硬派な文章なので、気に入る人とそうでない人に分かれるかと思いますが、それぞれの思いを抱きながら読み進めてみる価値があると思います。
「 ガルシアへの手紙 」 エルバート・ハバード
キューバ戦争からみにおいて、私の記憶の中に、まるで、
火星が大接近してきた時のように、最もはっきりと思いだす人物がいる。
アメリカとスペインとの間で、キューバをめぐって戦争が起きた時、
合衆国は、どうしても、すぐに反乱軍のリーダーと
連絡をとらなくてはならなかった。
そのリーダーの名はガルシアという。
キューバの山奥の要塞にいるらしい。
それがどこにあるのかは誰も知らない。
郵便も電報も届かない。
しかし、大統領はガルシア将軍の協力を取りつけなくてはならないのだ。
そして、それは、至急を要する。
どうすればいいのだ!
誰かが大統領にこう言った。
「ガルシアを見つけ出せる人間がいるとしたら、それは、ローワンという名の男
です」
ローワンは呼ばれた。
そして、大統領からガルシアへの手紙を受け取った。
私は、ローワンという名の男が、どのようにガルシアへの手紙を受け取り、
それを防水の小袋に密封し、彼の胸に革ひもでしばりつけ、
四日後の夜に小舟でキューバの海岸に上陸し、
ジャングルの中に消えていき、敵地を歩いて横断し、
ガルシアに手紙を渡し、三週間後に別の海岸に現れたかを、
詳しく語ろうとは思わない。
ただ、言いたいのは、次のようなことだ。
それは、マッキンレー大統領がローワンにガルシアへの手紙を渡したが、
そのときローワンは、その手紙を黙って受け取り、
「ガルシアはどこにいるのですか」と聞かなかったということである。
この男こそ、ブロンズで型にとり、
その銅像を永遠に国中の学校に置くべきである!
若い人たちに必要なのは、学校における机の上の勉強ではなく、
また、あれこれの細かな教えでもない。
ローワンのように背骨をピシッと伸ばしてやることである。
自らの力で物事に取り組もうという精神を教えることである。
勇気を教えてやることである。
そうすれば、若い人たちは、信頼にそれこそ忠実に応えられる人物、
すぐ行動に移せる人物、精神を集中できる人物となり、
そしてガルシアに手紙を持っていく人物となれるであろう。
ガルシア将軍は、もうこの世にはいない。
しかし、他にもガルシアたるべき人はいる。
たくさんの人たちの手助けを必要とする事業を
成し遂げようと努力した人であれば、
ふつうの人間が、いかに愚かで、無能であるかを知って、
ほとんど絶望的になったことがあるに違いない。
一つのことに集中して、それを行うことができない。
また、やろうとも思わない者がたくさんいる。
まったくあてにならない手助け、ばかな不注意、
どうしようもない無関心、いいかげんな仕事の遂行が
当り前になっているのだ。
おそらく、そういう者たちをひっかけたり、だましたり、
おどかしたりして強制的にやらせるか、
お金でつったりしてやらせるか、あるいは恵み深い神が
奇跡を起こしてくれて光の天使をアシスタントとして
送ってくださらないかぎり、
誰も事業を成功させることはできないだろう。
皆さんに、ちょっと試してほしいことがある。
今、あなたはオフィスにいる。
そしてすぐ近くに六人の部下がいる。
その中の一人を呼び、次のように頼んでみてほしい。
「コレッジョの生涯について、百科事典で調べ、
簡単なメモをつけてほしい」と。
その命じられた部下は、何も言わずに、「わかりました」と言い、
そして、その頼まれた仕事をやるだろうか。
おそらく彼は、そうしないはずだ。
彼は、どんよりとした、やる気のない目であなたを見て、
次のような質問の一つや二つをするにちがいない。
「コレッジョとはどんな人ですか」
「どの百科事典を調べるのですか」
「百科事典はどこにあるのですか」
「私はそのためにここで仕事をしているんですか」
「ビスマルクのことですか」
「チャーリーにやらせたらどうですか」
「コレッジョは生きている人なんですか」
「急ぐんですか」
「私が百科事典を持ってきますから、ご自分で調べられたらどうでしょう」
「なんのために知りたいんですか」
あなたが部下の質問に答えて、どのようなやり方で情報を求めるか、
なぜその情報が必要なのかを説明した後に、その部下は、
十中八九、他の社員に「コレッジョ」を見つける手伝いをさせた上で、
「そんな「コレッジョ」というような男はいません」
とあなたに報告するであろう。
私は、このことをあなたと賭けてもよい。
もちろん、私は、この賭けに負けるかもしれない。
しかし、多分、私は負けないはずである。
さて、あなたが、もし賢明であれば、手伝いを頼んだ部下に
「コレッジョの見出しはKではなくCだよ」と説明なんかしないで、
とってもやさしい笑顔で「もういいよ」と言い、
そして自分でコレッジョを調べるであろう。
こうした自主的行動力のない、道徳心のかけらもない、
意志力の失せている、
そして自ら進んで気持ち良く頼まれごとを引き受けない、
などの生き方をほとんどの人がするために、いつまでたっても、
本当の意味での「理想の福祉社会」が実現できないのだ。
自分たち自身のためにだってろくに行動しない人たちが、
果たして、みんなのためになることをするものだろうか?
厳しくあれこれ命じることのできるナンバー・ツーはいるかもしれない。
週末の夜になると、クビを恐れている多くの従業員たちが
じっとそこにいるからである。
秘書を求人広告で探しても、その応募者たちは、
十人のうち九人までが言葉を正しく知らないし、
句読点を打つこともできない。
そして、そのことが大切なことさえもわかっていない。
そんな人にガルシアへの手紙を書かせられるだろうか?
「あの経理担当の者ですけど」と大きな工場の責任者が私に言った。
「彼がどうしたんだい」
「彼は、経理マンとしては使えるのですが、
街に所用で行かせるとですね、ちゃんと用を済ます時もありますが、
そうでない時があるんです。
途中、四軒の店に寄って、お酒を一杯ひっかけ、
メインストリートに着いた時は、何の用で使いに来たのかさえ
忘れてしまうことがあるんです」
こんな男にガルシアへの手紙を届けるように頼めるだろうか?
私たちは、このごろ、次のようなかなり感傷的な同情を聞く。
「虐げられ、使い捨てにされる人たち」とか、
「自分にふさわしい仕事を求めて歩く、かわいそうな人たち」
という言い方である。
そして、それは大体、経営者たちへの厳しい言葉をともなっている。
だらしなく、そしてまったくの役立たずのために、
少しでもまともな、知的な仕事をさせてやろうとむなしい奮闘を続け、
実際の年齢よりも老け込む経営者や、
彼が見ていないとサボるばかりであるにもかかわらず、
「助けてくれる(はずの)人」を求めて、
ずっとしんぼう強くがんばっている経営者の人たちに対しては、
私は言うべき言葉もない。
どの会社でも、どの工場でも
不要なものを削減する行為はいつも続けられている。
経営者たちは、仕事で利益を生むことになんの貢献もできない、
「助けてくれる(はずだった)人」を絶えずクビにし、
代わりの人を採用し続けているのだ。
たとえ、どんな好景気になっても、この人員の整理は続けられるであろう。
まして、不景気な時代ともなり、仕事が少なくなってくると、
この人員整理は一層厳しくなってくるに違いない。
無能でまったく役に立たない人間には職がなくなってしまい、
そして、二度と仕事に就けなくなってしまうのだ。
これが適者生存というものである。
すべての経営者は、自分たちの利益を生み出すことに
最も貢献する人間、すなわち、ガルシアに手紙を届けることの
できる人たちだけを残すからである。
私の知っているある男はとても優れた面を持ってはいるが、
自分で、会社の経営をするような能力はない。
そのくせ、彼は、他人にはまったく役立たない。
なぜなら、彼は、自分の雇い主が、いつも自分を虐げ、
あるいは虐げようとしていると思い込んでいるからだ。
彼は他人に命令を与えることもできないし、
命令を受けることもできない人間なのである。
彼にガルシアへの手紙を頼んだら、きっとこう言う。
「自分で届けたらいいじゃないか!」
今夜も、私の知るその男は,仕事を求めて、街をさまよっている。
風が、その擦り切れて糸さえ見えるコートを通り抜け、
ヒュー、ヒューと鳴っている。
彼をよく知る人間は、彼を決して雇いはしない。
当り前だ。いつも彼は、まわりの人々に不満の扇動をするからだ。
彼に、それがいかによくないことかをわからせることはできない。
唯一、それをわからせることができるとするならば、
それは、底の厚いブーツで蹴飛ばしてやることだ。
もちろん、私にだって、このような人間は、
いろいろなハンディキャップを持っている人と同じように
同情すべき点もあることはわからないではない。
しかし、私たちは、大変な事業の経営に取り組み、
終業時間になろうが関係なしに働き続ける人たちにも、
そして、無能でだらしのない、心ない恩知らずたちを
率いて、戦うことを強いられ、髪も白くなってしまった人たちへも、
一摘でいいから、憐れみの涙を流してやろうではないか。
目をむけてやろうではないか。
もし、彼らの事業がなければ、
その下で働く者たちの仕事はなくなるし、
生活もままならなくなってしまうのだ。
私は言い過ぎているだろうか。
おそらく、そうかもしれない。
しかし、世の中全体が変化の激しい大変な時代となってきた今、
私は、成功した人に同情の言葉を述べたいと思う。
この成功者たちは、ほとんど勝ち目のない戦いに挑み、
他の人々に努力を求め、そしてなんとか成功しつつ、
にもかかわらず、自分にはただ住むところと着る物を除いて
ほとんど大したものは残らないのだ。
私は、自分で弁当箱を持っていき、
そして日雇いの仕事をしたこともあるし、人を雇ってもきた。
だから、両方について語っても許してもらえると思う。
貧乏はよくないことだ。
ボロを着ることをほめてはいけない。
そして、すべての貧しい人が高潔であるとは言えないように、
すべての経営者が強欲で横暴であるとも言えない。
私の心が引きつけられる人とは、
上司がいようと、上司がいまいと、
自分の仕事をきちんとする人である。
そして、ガルシアへの手紙を頼まれたなら、
その信書を静かに受け取り、バカな質問をせず、
近くの下水に捨ててしまおうなどとも思わず、
ガルシアへ手紙を届けることに全力を尽くす人は、
決して仕事をクビになることはないし、
賃金の値上げを求めてあれこれ画策することも必要でない。
文明とは、そんな人を求めて探し続ける一つの長い道程なのである。
このガルシアに手紙を届けるような人の願いは、
何であろうと聞き入れられる。
このような人は、どこの都市でも、どこの街でも、
どこの村でも求められている。
このような人は、どこの会社でも、どこの店でも、
どこの工場でも求められている。
世界中が、このような人間を、必死に、呼び集めているのだ。
「ガルシアへの手紙を届けられる」人間は、
どこでも、本当にどこでも、必要とされているのだ。
キューバ戦争からみにおいて、私の記憶の中に、まるで、
火星が大接近してきた時のように、最もはっきりと思いだす人物がいる。
アメリカとスペインとの間で、キューバをめぐって戦争が起きた時、
合衆国は、どうしても、すぐに反乱軍のリーダーと
連絡をとらなくてはならなかった。
そのリーダーの名はガルシアという。
キューバの山奥の要塞にいるらしい。
それがどこにあるのかは誰も知らない。
郵便も電報も届かない。
しかし、大統領はガルシア将軍の協力を取りつけなくてはならないのだ。
そして、それは、至急を要する。
どうすればいいのだ!
誰かが大統領にこう言った。
「ガルシアを見つけ出せる人間がいるとしたら、それは、ローワンという名の男
です」
ローワンは呼ばれた。
そして、大統領からガルシアへの手紙を受け取った。
私は、ローワンという名の男が、どのようにガルシアへの手紙を受け取り、
それを防水の小袋に密封し、彼の胸に革ひもでしばりつけ、
四日後の夜に小舟でキューバの海岸に上陸し、
ジャングルの中に消えていき、敵地を歩いて横断し、
ガルシアに手紙を渡し、三週間後に別の海岸に現れたかを、
詳しく語ろうとは思わない。
ただ、言いたいのは、次のようなことだ。
それは、マッキンレー大統領がローワンにガルシアへの手紙を渡したが、
そのときローワンは、その手紙を黙って受け取り、
「ガルシアはどこにいるのですか」と聞かなかったということである。
この男こそ、ブロンズで型にとり、
その銅像を永遠に国中の学校に置くべきである!
若い人たちに必要なのは、学校における机の上の勉強ではなく、
また、あれこれの細かな教えでもない。
ローワンのように背骨をピシッと伸ばしてやることである。
自らの力で物事に取り組もうという精神を教えることである。
勇気を教えてやることである。
そうすれば、若い人たちは、信頼にそれこそ忠実に応えられる人物、
すぐ行動に移せる人物、精神を集中できる人物となり、
そしてガルシアに手紙を持っていく人物となれるであろう。
ガルシア将軍は、もうこの世にはいない。
しかし、他にもガルシアたるべき人はいる。
たくさんの人たちの手助けを必要とする事業を
成し遂げようと努力した人であれば、
ふつうの人間が、いかに愚かで、無能であるかを知って、
ほとんど絶望的になったことがあるに違いない。
一つのことに集中して、それを行うことができない。
また、やろうとも思わない者がたくさんいる。
まったくあてにならない手助け、ばかな不注意、
どうしようもない無関心、いいかげんな仕事の遂行が
当り前になっているのだ。
おそらく、そういう者たちをひっかけたり、だましたり、
おどかしたりして強制的にやらせるか、
お金でつったりしてやらせるか、あるいは恵み深い神が
奇跡を起こしてくれて光の天使をアシスタントとして
送ってくださらないかぎり、
誰も事業を成功させることはできないだろう。
皆さんに、ちょっと試してほしいことがある。
今、あなたはオフィスにいる。
そしてすぐ近くに六人の部下がいる。
その中の一人を呼び、次のように頼んでみてほしい。
「コレッジョの生涯について、百科事典で調べ、
簡単なメモをつけてほしい」と。
その命じられた部下は、何も言わずに、「わかりました」と言い、
そして、その頼まれた仕事をやるだろうか。
おそらく彼は、そうしないはずだ。
彼は、どんよりとした、やる気のない目であなたを見て、
次のような質問の一つや二つをするにちがいない。
「コレッジョとはどんな人ですか」
「どの百科事典を調べるのですか」
「百科事典はどこにあるのですか」
「私はそのためにここで仕事をしているんですか」
「ビスマルクのことですか」
「チャーリーにやらせたらどうですか」
「コレッジョは生きている人なんですか」
「急ぐんですか」
「私が百科事典を持ってきますから、ご自分で調べられたらどうでしょう」
「なんのために知りたいんですか」
あなたが部下の質問に答えて、どのようなやり方で情報を求めるか、
なぜその情報が必要なのかを説明した後に、その部下は、
十中八九、他の社員に「コレッジョ」を見つける手伝いをさせた上で、
「そんな「コレッジョ」というような男はいません」
とあなたに報告するであろう。
私は、このことをあなたと賭けてもよい。
もちろん、私は、この賭けに負けるかもしれない。
しかし、多分、私は負けないはずである。
さて、あなたが、もし賢明であれば、手伝いを頼んだ部下に
「コレッジョの見出しはKではなくCだよ」と説明なんかしないで、
とってもやさしい笑顔で「もういいよ」と言い、
そして自分でコレッジョを調べるであろう。
こうした自主的行動力のない、道徳心のかけらもない、
意志力の失せている、
そして自ら進んで気持ち良く頼まれごとを引き受けない、
などの生き方をほとんどの人がするために、いつまでたっても、
本当の意味での「理想の福祉社会」が実現できないのだ。
自分たち自身のためにだってろくに行動しない人たちが、
果たして、みんなのためになることをするものだろうか?
厳しくあれこれ命じることのできるナンバー・ツーはいるかもしれない。
週末の夜になると、クビを恐れている多くの従業員たちが
じっとそこにいるからである。
秘書を求人広告で探しても、その応募者たちは、
十人のうち九人までが言葉を正しく知らないし、
句読点を打つこともできない。
そして、そのことが大切なことさえもわかっていない。
そんな人にガルシアへの手紙を書かせられるだろうか?
「あの経理担当の者ですけど」と大きな工場の責任者が私に言った。
「彼がどうしたんだい」
「彼は、経理マンとしては使えるのですが、
街に所用で行かせるとですね、ちゃんと用を済ます時もありますが、
そうでない時があるんです。
途中、四軒の店に寄って、お酒を一杯ひっかけ、
メインストリートに着いた時は、何の用で使いに来たのかさえ
忘れてしまうことがあるんです」
こんな男にガルシアへの手紙を届けるように頼めるだろうか?
私たちは、このごろ、次のようなかなり感傷的な同情を聞く。
「虐げられ、使い捨てにされる人たち」とか、
「自分にふさわしい仕事を求めて歩く、かわいそうな人たち」
という言い方である。
そして、それは大体、経営者たちへの厳しい言葉をともなっている。
だらしなく、そしてまったくの役立たずのために、
少しでもまともな、知的な仕事をさせてやろうとむなしい奮闘を続け、
実際の年齢よりも老け込む経営者や、
彼が見ていないとサボるばかりであるにもかかわらず、
「助けてくれる(はずの)人」を求めて、
ずっとしんぼう強くがんばっている経営者の人たちに対しては、
私は言うべき言葉もない。
どの会社でも、どの工場でも
不要なものを削減する行為はいつも続けられている。
経営者たちは、仕事で利益を生むことになんの貢献もできない、
「助けてくれる(はずだった)人」を絶えずクビにし、
代わりの人を採用し続けているのだ。
たとえ、どんな好景気になっても、この人員の整理は続けられるであろう。
まして、不景気な時代ともなり、仕事が少なくなってくると、
この人員整理は一層厳しくなってくるに違いない。
無能でまったく役に立たない人間には職がなくなってしまい、
そして、二度と仕事に就けなくなってしまうのだ。
これが適者生存というものである。
すべての経営者は、自分たちの利益を生み出すことに
最も貢献する人間、すなわち、ガルシアに手紙を届けることの
できる人たちだけを残すからである。
私の知っているある男はとても優れた面を持ってはいるが、
自分で、会社の経営をするような能力はない。
そのくせ、彼は、他人にはまったく役立たない。
なぜなら、彼は、自分の雇い主が、いつも自分を虐げ、
あるいは虐げようとしていると思い込んでいるからだ。
彼は他人に命令を与えることもできないし、
命令を受けることもできない人間なのである。
彼にガルシアへの手紙を頼んだら、きっとこう言う。
「自分で届けたらいいじゃないか!」
今夜も、私の知るその男は,仕事を求めて、街をさまよっている。
風が、その擦り切れて糸さえ見えるコートを通り抜け、
ヒュー、ヒューと鳴っている。
彼をよく知る人間は、彼を決して雇いはしない。
当り前だ。いつも彼は、まわりの人々に不満の扇動をするからだ。
彼に、それがいかによくないことかをわからせることはできない。
唯一、それをわからせることができるとするならば、
それは、底の厚いブーツで蹴飛ばしてやることだ。
もちろん、私にだって、このような人間は、
いろいろなハンディキャップを持っている人と同じように
同情すべき点もあることはわからないではない。
しかし、私たちは、大変な事業の経営に取り組み、
終業時間になろうが関係なしに働き続ける人たちにも、
そして、無能でだらしのない、心ない恩知らずたちを
率いて、戦うことを強いられ、髪も白くなってしまった人たちへも、
一摘でいいから、憐れみの涙を流してやろうではないか。
目をむけてやろうではないか。
もし、彼らの事業がなければ、
その下で働く者たちの仕事はなくなるし、
生活もままならなくなってしまうのだ。
私は言い過ぎているだろうか。
おそらく、そうかもしれない。
しかし、世の中全体が変化の激しい大変な時代となってきた今、
私は、成功した人に同情の言葉を述べたいと思う。
この成功者たちは、ほとんど勝ち目のない戦いに挑み、
他の人々に努力を求め、そしてなんとか成功しつつ、
にもかかわらず、自分にはただ住むところと着る物を除いて
ほとんど大したものは残らないのだ。
私は、自分で弁当箱を持っていき、
そして日雇いの仕事をしたこともあるし、人を雇ってもきた。
だから、両方について語っても許してもらえると思う。
貧乏はよくないことだ。
ボロを着ることをほめてはいけない。
そして、すべての貧しい人が高潔であるとは言えないように、
すべての経営者が強欲で横暴であるとも言えない。
私の心が引きつけられる人とは、
上司がいようと、上司がいまいと、
自分の仕事をきちんとする人である。
そして、ガルシアへの手紙を頼まれたなら、
その信書を静かに受け取り、バカな質問をせず、
近くの下水に捨ててしまおうなどとも思わず、
ガルシアへ手紙を届けることに全力を尽くす人は、
決して仕事をクビになることはないし、
賃金の値上げを求めてあれこれ画策することも必要でない。
文明とは、そんな人を求めて探し続ける一つの長い道程なのである。
このガルシアに手紙を届けるような人の願いは、
何であろうと聞き入れられる。
このような人は、どこの都市でも、どこの街でも、
どこの村でも求められている。
このような人は、どこの会社でも、どこの店でも、
どこの工場でも求められている。
世界中が、このような人間を、必死に、呼び集めているのだ。
「ガルシアへの手紙を届けられる」人間は、
どこでも、本当にどこでも、必要とされているのだ。